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日の丸 [雑感日記]

NO4.JPGNO4.JPGNO4.JPG昭和12年12月 日本軍は中国南京を陥落させ国中が勝利に沸き立った。小学生だったが、映画館では入城式の様子が繰り返し上映され、総司令官の松井大将が馬上豊かに騎乗の将校を引き連れ、入場式を行う勇姿がたまたま同姓だったこともあり、感激したものである。

ただあ子ども心に違和感を覚えたのは占領下の中国の人たちが日の丸の小旗を振り、日本軍を迎える姿であった。これが何年か先の、自分の姿であろうなどとは知るべくもなかった。

昭和20年8月満州国奉天市の大学の学生だった私は突然攻め込んできたソ連軍に市内は蹂躙され学校は追い出され、ソ連の小旗の元に屈辱的な日々を過ごしていた。やがて蒋介石率いる国府軍が勝利者として入城することになりこんどは青天白日旗(現台湾の国旗)の小旗を振って国府軍の入城を迎えた。しばらくすると八路軍(現中共軍)がとってかわり今度は現中国軍の旗を掲げて、その入城を歓迎に道端に並んで旗を振った。何とも表現のしようもない屈辱感、心で泣いて小旗を振ったものである。

やがて引揚が開始され、葫蘆島の収容施設に入り順を待った。そして待ちに待ったその迎えの船が姿を現し港に入ってきた。岸壁で船を今か今かと待っていた人々の間から海鳴りのような歓声が上がった。入港してくる船は船側に「信濃丸」日露戦争で日本海を北上するソ連のバルチック艦隊を発見し日露戦争を勝利に導いたとされるあの信濃丸、そしてマストには日章旗が高々と風にはためき、まるて「日本人の皆さんご苦労様、お迎えに来ました」と言っているようで、みんな口々に「日の丸だ!日の丸だ!」と叫んで泣いていた。祖国!日本!日の丸!理屈ではなく涙が止まらずみんなで泣いた・2年余りではあったが三つの国の元にひれ伏していたもやもやがやっと晴れた思いであった。

そして気が付いた最近日章旗を見ることが少ない。旗日に町内を待ってみた、日の丸が出ていたのは小学校と公民館だけだった。これはいけないと思いすぐに工事店に電話を入れ屋上に国旗掲揚のポールを設置してもらった。

写真を添付しているが、女房殿からは「右翼と間違えられるのでやめてください」と苦情が出る始末、しかし風にはためく日も丸を見るこの心は、私にしか理解できない心なのであろうと思いながら、一人でじっと国旗を眺める旗日なのだ。


憲兵 [思い出日記]

私たちが住んでいる町にも関東軍の憲兵分隊が駐在していた。軍政下とも言えるような当時の戦時下において憲兵の権力は異常なもので、日本人の警察権力よりも強く厳しいものであったが、満人街(当時の労働力はすべて中国人、や満州族の現地人)で構成され、日本人は我々学校出たての若い何も解らない新米社員でさえも、最初から数十名の中国人労働者が部下として与えられ、階級の差別がなされていた。このようなことが終戦と同時に起こった、現地住民の暴動にも関連しているのだろうと思う。その様にして、差別し彼らは低い城壁で囲んだ区域で集団で暮らしていたのだが、「憲兵が来た!」誰かが囁くと、其れはまるで漣のように次々と伝わり街中はまるで無人のゴーストタウンのように物音も声もしないシーンとした不気味な死の街のようになってしまうのだ。如何に皆が憲兵を恐れていたかと言う事である。 中国の山東省から若い労働者が送りこまれて来たが、既に当時の日本は南方戦線での戦況の不利がひそかに知れわたっていて、半ば公然と反日的な言葉を発するものもいて、若い社員の我々に反抗的な態度を示すものも居た。

そんな時憲兵隊に通報すると、直ちに連れて行かれ、真冬に素裸にされ水をかけられ拷問されていたと言うような事は、時折耳にしていた。憲兵への恨みは尋常なものではなく、終戦と同時に憲兵はいち早く逃走し報復を恐れて姿を消してしまった。

 

 


いざ大陸へ [人生]

あわただしく十二月に卒業、正月も過ごすと、満州へと旅立つ事になった。当時民間の飛行機などは無く、下関で1泊し、関釜連絡線で釜山へ約8時間の航路、戦時でなければ、楽しい船旅でもあっただろうが、厳しい戦時中のこと、玄界灘や朝鮮海峡にはアメリカの潜水艦が出没し何度も避難訓練が行われ、救命具を付け、非常ベルがなると船底から甲板へ駆け上がり、全くのひやひや物だった。1万トン級の金剛丸、軍人や軍属の服装をした人が大勢乗船していた。釜山に着いたときには「ほっと」したものだった。それから列車に乗り3日の旅、朝鮮半島を北上、禿山の多いのには驚いた。鴨緑江を越え満州国へ入る。今なら3日間もかけていれば腰が痛くなるところだろうが、矢張り若さなのか、別に苦痛も無かった。

当時の日本の急行は時速60キロ、大陸の列車は幅が広く広軌鉄道で80キロで、かなりのスピードで走っているのだが、何しろ大草原の中、何も無く遠くに地平線が見えるだけで動いているのだか、いないのだか、全く何も感じなかった。窓から地面を見ると飛ぶように走っており、さすがに大陸だなと感じたものだった。家など何も無かったが、時折羊の群れを連れた現地人がいて、どこに住んでいるんだろうと思ったりした。

やがて奉天(現瀋陽)に着き、乗り換えて錦州省へ数時間後阜新へ着いた。何処に宿泊したか思い出せないが、新入社員の歓迎の昼食会などがあり、奇しくも小学校同級生の薄君と出会った。彼とはよく学校に連れたって行った仲なのだったが、全く見忘れてしまっていたが「松井君では?」と声をかけられ思い出した。4~5年振りだった。やがて勤務先も決まって新しく露天掘りが計画されている海州露天掘事務所に配属となったが、行ってみると何も無く大草原の中にぽつんと事務所が立っていた。当時日本では石炭は重要な戦略物資に指定され、わずかに数十センチの炭層をまるで這うようにして採掘していたものだったが、ここでは炭層の厚さが数十メートルも有り、上の土をめくると石炭の層が露出すると言う、信じられないような豊富な炭鉱であった。トンネルを掘って採掘する坑内採掘方式ではなく、露天掘りの形式が計画され、唯一の経験技術者がいる撫順炭鉱から技術者数十名が技術指導に来てくれて我々新入社員の教育に当たった。日本が資源を求めて満州国を建設し侵略して行ったのもむべなるかなと納得できた。

厳しい大陸性の気候夏はじりじりと焼け付くような太陽が照りつけ、冬は猛烈な吹雪で夜は氷点下30度くらいには下がり,マスクをしていると、上下のまつげが凍り付いて何時も目をぱちぱちしていなければくっついてしまうので困っていたのを思い出す。でも若さとでも言うのか、暑さも寒さも全く苦にもならず、働いていた。

 

 

 

 


卒業 [人生]

昭和18年12月 福岡工業学校の卒業を迎えた。学生生活も落ち着いて勉強出来るような環境には無く、勤労奉仕や軍事訓練などが多く、早く1人前の兵隊として役立つように教育がされていたような気がする。本来ならば21年の3月に迎えるはずの卒業も戦時教育法とかで一年繰り上げられさらに3ケ月早められ、社会へ送り出された。当時若い男性は殆んどが戦地へと送られ、あらゆる分野での人で不足は起こり女性でさえも軍需工場等に駆り出されていたときなので、我々工科系の学校では引っ張り凧で、就職先など選り取り見どり、嫁一人に婿8人とでも言おうか?現在のような就職難の時代には考えられないような状態であった。

「若人よ!行け満州へ!」広い大陸の開発に人出が足りるはずも無く、国策として満州に日本人を送り込み資源の開発に政府や軍が力を入れているのは当然でも有ったのだろう。深く考えもせずに「良し!狭い日本で働くよりも大陸で思う存分、腕を振るおう」何の根拠も無く大陸に就職を決めた。錦州省阜新市の阜新炭鉱㈱、叔父が居たこともあり迷う事も無く、家族の反対も無く勇躍、正月が開けるとすぐに日本を後にした。

 


反省のこと [人生]

一月五日夜、何気なく立ち上がったとき、右足に激痛、歩けなくなり、翌日、すぐに整形外科へ。診断は「何かの拍子で半月板が飛び出し、何かの拍子で元に戻り?炎症を起こしている」との事。それからしばらくは腫れたら水を抜く、の繰り返し、知人の紹介で医師を替わり、その診断は「半月板が磨り減って無くなり、骨と骨がぶつかって、痛んでいる。手術しか方法は無いが、高齢でもあり100%保障は出来ない。ヒヤルロンサンを注射してしばらく様子を見ましょう」との事で治療を続けたが全く効果なし、病院はあきらめ針灸で半年ほど治療を試みたが全く効果なし。歩行も儘ならず、近代医学や鍼灸の悪口をブツブツ言いながら暮らしていたが、

11月1日夜 ザ・ベストハウス123のテレビの放送を見ていた。佐野有美チャン現在二十才。先天性四肢欠陥症で両手右足が無く左足のみ、其れも完全ではなく指は3本しか付いていない。吾が子を始めて見たときの両親の衝撃!其れよりも必死で生きていこうとする有美ちゃんの生き様!涙無くて見られるものではなかった。多くの不自由はともかく、差別や偏見、好奇の目で見られ、保育園では「お化け!」などと心無い言葉に傷つき、それでも左足の指にお箸やスプーンを握り、食事や文字も書き階段もお尻をゆすりながら昇り降り、そして今は足の指でパソコンを操作し、ワープロの検定も取得、明るく、強く、生きている。そんな笑顔を見たときに、「ああ、自分は80余年も生きていて、たかがも右足の関節が痛い位で、何をブツブツ言っているのだろう」と恥ずかしくなってしまった。

左足1本で、あんなに頑張って、明るく生きている有美ちゃんに、人生の過ごし方を教えてもらった気がしてならない。後しばらくに人生!明るく頑張ろう!

有美ちゃん有難う。有美ちゃんに幸せあれ!


文明と狂気 [社会]

「文明」とは広辞苑に拠れば「生産手段の発達によって生活手段が上がり・・・」と有るが、暮らしている人間が幸せになるとは一言も無く、いわゆる文明が発達するという事は暮らしが便利になるということなのだ。確かにその通りで、電気掃除機洗濯機、計算機など大いに便利になった。鳥の真似をして空を飛び、魚の真似をして海に潜り、一体、人間は何をしているのだろうと思う。福岡から東京出張するのに昔は3~4日が常識であった。今は日帰りで用は足せる。余裕が出来た分、何か幸せになったのだろうか?何日も掛かった計算があっという間にコンピューターで可能になって人はゆったりと出来るようになったのだろうか?可能な仕事を負わされ疲れ果てて病気になり家庭はぎすぎすとしたものになり、人間関係はとげとげしくなり社会派病んで行くのではないか?と考えている。

家族が崩壊し高齢者の行方不明など、すべてはこの文明の過度な発達に起因しているような気がする。もう少しゆっくりと余裕を持ちながら、家庭や社会が壊れないようにバランスを取りながら文明を発達させていく事は出来ないものだろうか?

狂気のように科学技術ばかり発達させて、そのうちに人間は工場で生産され、人の情などかけらも無い狂気の世界が出来上がり、そして人類は破滅にと向かっていく。

そんな気がしてならないが皆どう思っているのか?聞きたいものである。

 


現代の姥捨て [社会]

封建時代、実際にあったと思われる「姥捨て山」の物語り、土地が痩せ、貧しい東北地方の物語だとばかり思っていた。其れがなんとこの現代の飽食時代の現実なのに唖然とする「現代の姥捨て」なのだ。100歳以上の老人の行方不明者が130人以上にも及ぶという報道を見て言葉も無い。勿論行政のずさんさはいまさら始まった事ではないが、冷え切った人の心の問題であろう。家族と離れて暮らす独居老人の中で孤独死を迎える人数も計り知れないものだろう。「現代の姥捨て」などファンタジーくらいにしか考えていなかった私は能天気で世間知らずだった事は甚だしい。といわねばなるまい。

死んだ人間に対し住民の税金をどんどん払って気にしない行政官僚たち、固定資産税がちょっとでも期限が過ぎようものなら、すぐに差し押さえをするだの、延滞税を払えだのというくせに、こんな出鱈目をしても、言い訳ばかりをして誰も責任を取ろうとしない。

憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度生活を営む権利を有する」

彼らにどうやって救いの手を伸ばすのか?資本主義国家日本が生んだ悲劇ではないか?政治家の先生達よ?政務調査会費を誤魔化す事にばかり頭を使わず、少しは国民の事も考えてはどうなのだ!


社会の崩壊 [社会]

私達が子供の頃、戦中であるが、ご近所、隣組、町内など皆仲間意識というか、何らかの絆があった。小学生の頃、町内会長さんに会うと「今日は」と大声で挨拶などしたものである。私も数年前町内会長を一時務めたが、忘年会などで杯を交わした翌日道で会っても、良い大人が知らん顔、ほんの四、五軒先の人がである。しかしながら用事があって話をすると良い人で、これはもう社会の基本的なものが欠落していると思い「町内の挨拶運動を始めよう」と思い立ったのだが、思いかけなく急病で倒れ会長を辞す羽目となり挫折してしまった。もう一つ遣り残した仕事がある。最近良く耳にする孤独死、幹部の誰に聞いても町内に老人の1人暮らしの人が何人いるのか?誰も知らない。こんな事ではいけないと思い、先ず書体を調査し、確認する事からはじめ、定期的に安否の確認をしなければと思って居たのだが・・・

地域のつながりの崩壊だけではない。家族という最小単位核の絆さえ崩壊してしまっている。高齢者の所在が不明など、信じられない日本社会の有様であるが、「大成功!」と気を良くしている国があるであろう。私見、偏見かもしれないが私は、これはアメリカの占領政策ではないかと思っている。昔の日本では「忠孝」が国是であり、私を捨てて国に尽くし、親に孝養を尽くす事が国民の心に沁み込んでいた。

米英にとってこの捨て身の忠孝が不気味な何をするか分からない存在として目に映り、これを徹底的に壊す事により将来2度と米英に刃向かう事の無いようにすることが第2次大戦後の占領政策の大きな目的の1つであったはずである。自由という名の美酒に酔い、経済という名の悪魔に魂を売り渡した日本人は、親子や家族、近隣社会には目も向けず個人主義に走り、今では皇室さえも親子の間でギグシャグしている始末である。このような国が繁栄していくわけも無く、いずれはどこかの国に植民地化され三流国となって行くのであろう。

六十五年前身を捨てて日本の未来を信じて命を捨てた人たちになんと言ってあの世で言い訳をしたら良いのか?哀しい限りでは有る。

 

 


遺言の事 [戦争]

何もいまさら子供や孫に何か書き残そうというわけではない。65年も前に書いた遺書の事なのだ。当時奉天工大の1年生、初めての夏休みでは有ったが、そんなのんきな時代では無かった。戦況は厳しく、しかもソ連はもはや日本の力が尽きたと判断するや宣戦布告、突如としてソ満国境を越え、戦車部隊を先頭に雪崩を打って攻め込んできた。我々学生も、もはや勉強どころではなく、やがて市内へ突入してくるであろうソ連戦車を妨害すべく市内へ通じる主要道路に壕を掘るよう軍より命令が下り各大学で分担が決まり私ども工大は市の北方を毎日スコップやツルハシを手に出かけていた。刻々と南下して来るソ連戦車軍の様子が伝わってくる。

当時最強と聞いていた関東軍は南方戦線に兵力を割き、補充の兵は高齢の召集兵ばかりだったようで、世界最強といわれたソ連戦車部隊に対抗できる力は無かったようだ。やがて運動場に集合を命じられた私どもに関東軍の配属将校より次のような訓示があった。

 『学生諸君!折角諸君らが壕を掘りに行っているが、もやはソ連軍はそこまで来ていて到底壕掘りくらいでは間に合わない。爆弾を抱いて敵戦車の下に身を投じ、戦車を阻止するしか方法はない。どうか祖国のため特攻として命を捧げてもらいたい」学校長からは「折角勉強をするために入学してきた諸君ではあるが、祖国の危機に身を挺する事は男児の本懐である。君たちの最後の様子は故郷の両親をはじめ家族の方には学校より報告する事になる。諸君は本日、家族宛に遺書をしたため明日までに学校に提出せよ。学校より責任を持って家族の元に届ける。なお爆弾は必要時に手渡すので待機して置くように」まあこんな調子のものだったような気がする。

その夜級友たちと別れを惜しんで語り合い「日本人として恥ずかしくない死に方をしよう。そして今度は靖国神社で会おうな」などと手を握り合って別れを惜しんだものだった。髪を少しと爪を切り両親と弟宛に遺書を書き翌日学校に提出した。不思議と動揺も無かったと思う。学校が終われば軍隊に入り、どうせ生きて帰ることなど出来無いと常々覚悟が出来ていたものと思う。

数日して級友の誰かが大声で叫んだ「来たぞ!」二階の窓から見ると遠くに戦車が一列横隊に並んでこちらに向かって進んでくるのが見えた。途方も無く大型だった。福岡に居たとき、久留米の戦車隊の訓練を目にする事もあり戦車の大きさが概念として頭の中にあったのだが、とんでもないまるでビルが進んでくるような大きさでたまげてしまった。戦車砲をこちらに向けると「ずどん!」と打ってくる。思わず首をすくめ「危ない!」と叫んで窓際から離れる。学校に滞在していた日本軍の小隊が出てきて指揮官が軍刀を抜き「撃て!」と抵抗を始めた。「お!やってる、やってる」不謹慎だが我々学生には何もする事は無い。戦車砲が撃ち始めると指揮官が軍刀に白いタオルか布切れらしいものをつけて振る始めた。降伏だ。日本では女性たちが竹やりで米軍の自動小銃に立ち向かう訓練をしていたが、そんな事ををさせた軍の指導者の無謀さにあきれるほかは無い。所詮ソ連兵が持っている自動小銃(マンドリンと呼んでいたが)に1発しか玉が出ない38式歩兵銃では到底勝ち目は無いのだ。

蹂躙された奉天の街、其れからは地獄の様相を呈した。マンドリンを振り回し、やりたい放題のソ連兵このことは又の機会に書くことにして。私の遺書はどこに?

あの遺書が帰らなければ私の戦争は終わらない様である。遺書はどこにあるのだろう?

 


カラオケ [平和]

月に一度友人三名と計四人で食事をしカラオケ店へ繰り込む。年代も近い事だし、話題は事欠かない。政治不信に始まり、最近の社会不安、etc・・・・何しろ歌は大正・昭和演歌ばかり。思いっきりジーちゃん声で唄って憂さを吐き出し、帰りにはすっかり心身ともに若返って気分爽快、最近、歌う事が認知症の予防に良い事が医学的にも立証されて、リハビリ病院などでも採用されているようで、社会的にも市民権を得てきているようである。気の置けない親しい友人4人であることも楽しさを倍加させていることは間違いない。

4人であることが、又1つの良い点で、3人では順番がせかされて忙しいし、5人では中々マイクが回らず間が持てない。友人の健康を祈る事、切である。最初に組んだ4人は1人の友人が急性の胃がんで倒れ急逝してしまった。しばらく3人で続けていたがなんとなく寂しく、いい友人が1人参加するようになって又回りが良くなったみたいである。聞くところに寄ればカラオケを発明した人が特許をとっていないそうだが国から勲章をやるべきでないかと思う。戦中戦後と忙しく走り抜けてきたわれわれの世代にこのような至福のひと時を与えてくれるような娯楽を考え出した人に何故勲章が無いのか腹立たしい。原爆の起因ともなったアインシュタイン博士などよりも平和ノーベル賞にふさわしいと思うのだが。 

振り返ると結成したのはウインドウズ95が発売された1995年の事であった。パソコンの操作を習うため講習会に参加した。若い人ばかりで自然オジサンが固まりそのうちゴルフの話になり一緒にラウンドする事になった。ゴルフだけでは詰まんないとカラオケ教室に行こうとの話になり事は始まった。これからも長く続いてみんな元気で人生の終末期がいくらかでも楽しく過ごせる様祈る事、切である。

ジーさん声、節も外れっぱなしでも、其れがまためっぽう楽しい。ジーさん万歳!

 

 

 


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